あらかじめどういう情報が提示されていればよいのか

| コメント(0) | トラックバック(0)
「ドラマ」だと許せることがなぜ「ニュース」だと許せなくなるのだろうと考えた。
「バラエティ」だったら?「ドキュメンタリー」だったら?
いろいろ考えると、「これはフィクションです」という宣言よりも「これはガチです」という暗黙の了解的なモノの存在感が案外大きいことに気づく。

僕がこんなことを考えるようになった背景には「これがガチなはずないでしょ」という暗黙の世界観を強烈に強要する、米国のプロレスに親しんできたことがあるかもしれません(今では米国のプロレスは「これはフィクションです」と宣言しているけれども)。
これは、たとえば誰かが自身のブログでおすすめ商品を紹介するときにいかに振る舞うのが良いかという話にもつながっているかもしれないと思うのです。
ドラマのエンドロールで「衣装協力」としていくつかのブランドの名前が並んでいること、その後に「提供」としていくつかのブランドの名前が表示されること・・・とか。

ドラマは八百長ではないがプロレスは八百長だと主張する人は多い。
この場合、その人はドラマをどういうモノだと考えていて、それはどういう情報があらかじめ与えられている(あるいは与えられていない)ことによるものなのか?プロレスをどういうものだと考えていて、それはそれはどういう情報があらかじめ与えられている(あるいは与えられていない)ことによるものなのか?
あるブログの中にそういう人が言うところのガチのエントリとヤオのエントリが混在しているとして、そのことについてのどういう情報がどのような形で提供されていればいいのか?

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://kazunarihosokawa.com/mt-tb.cgi/87

コメントする

このブログ記事について

このページは、k-hosokawaが2013年1月 1日 13:03に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「ボイジャー1号と僕の人生の話。」です。

次のブログ記事は「歌舞伎とミュージカル、マスパブリシティとウェブPR、水と油」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

ウェブページ

  • about
OpenID対応しています OpenIDについて
Powered by Movable Type 5.11