ヘアサロン()で朝日新聞号外縮刷版を見ていて思ったこと。
これだけを見て思ったことなので、これから書くことがそうではない可能性が大いにあるいう前提で。

昭和16年頃までの朝日新聞号外は誰の代弁者でもなく、乃木大将の殉死なら乃木大将の殉死、米騒動なら米騒動を伝えるだけの機能しか持っていなかったように読めます。が、昭和16年以降の朝日新聞号外の記事からは、それが誰かの言葉を代弁しているような印象を受けてしまいます。
その誰かというのは、戦中は大本営であり、戦後は大本営らしきものの反対側にあるもの≒「市民」なのかもしれません。
この部分の揺らぎについて、朝日新聞はしばしば批判されますが、昭和16年以前の朝日新聞号外を見ると、そういった揺らぎはあるにせよ、昭和16年以降は「誰かの代弁者たる朝日新聞」としての姿勢は一貫しているように読めます。

と、ここで気になるのが、新聞のいろいろがうまくいっていないらしい中で、「誰の代弁者でもない朝日新聞」という昭和16年以降には放棄されてきた朝日新聞の姿勢が、平成26年の今、可能性として有りうるのかどうなのかということなのです。

この考察が正しいかどうかは全然わからないのですが、どうなんでしょ、実際には。